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誰も覚えていないこと≒存在しなかったこと(あるいは狂人の日記)

誰も人がいない所で木が倒れた 有名な禅問答に「誰も人がいない所で木が倒れた。そのとき倒れた音はしたか?」というのがあり、模範的な回答としては「音がしたかしなかったかは、誰も聞いていないので証明できない」なのであるが、人間の記憶というのもこれと一緒だなと思うことが最近あった。 会話において、とある発言が誰から発せられたか、どういう文脈で発せられたのかということが話題になったのだが、その発言について、 自分以外、誰も覚えていない という状況が発生した。 メモは手元に残っており、誰かが発言したという点については自信があるのだが、それが誰だったかというのが分からない。 発言したと思しき人に確認してみても「発言した覚えがない」となると、いよいよ自分の記憶違いである(と周囲に思われている)可能性が高い。 幸いその内容はさして重要な事ではなかったし、発言した人間が誰かも分からない「発言」なんて、はっきり行って無意味であるため掘り返さないことにした。 個人の脳内=仮想現実 周知のとおり、人間の記憶なんてあてにならないし、脳が勝手に記憶を作り出すことさえある。 同時に一個人の認識する「世界」は現実からのインプットを元に脳みそが作り出している「仮想現実」であり、実はそれぞれ別の「世界」に生きている。 (インプット情報が完全に電子化された世界が映画「マトリックス」の世界観である。) 人間は意識集合体ではないので、それぞれ記憶も現実に対する認識も違うのである。 この社会はひとりひとりの「仮想現実」を照らし合わせて、ずれがないか、間違いがないか、ちゃんとそこにあるかをすり合わせて「現実」として成り立っている。 インターネットのすばらしいのは、この「仮想現実」が世界中の人間と共有できることにあると個人的には思っている。 人類の歴史をかんがみると、徒歩でいける範囲から始まり、馬による交通手段の発達、文字の発明による手紙や手書きの本での伝達、印刷による書籍や新聞での伝達、電話の発明、テレビの発明と「仮想現実」を拡散する手段が広がっていった。 20世紀中は「世の中はこうなっている」という情報の押し付けが可能だったマスメディアが大きな力を持っており、インプット情報を検討する手段を持たなかった大衆は「世の中はそうなっているんだ」と「仮想現実」を構築していた。